雑誌「KARATE LIFE」(発行:全空連)のリレーエッセイ「我が心の空手」に、喜島教室師範の西谷先生が「私の空手道の思い出」と題して寄稿されました。以下、ご紹介いたします。
私と空手道との出会いは高校1年生の春、和歌山市の剛柔流拳武館本部道場に入門したのが始まりで、そこでは初日から血まみれの荒っぽい稽古でした。そこにいらした宇治田省三先生は心のやさしい先生で、空手以外でもいろいろ面でお世話になりました。
慶応義塾大学空手部に入部後は師範である小幡功先生や大勢の先輩から松涛館流の空手を学び、卒業後、昭和39年に松涛館空手道拳心会を創設し、全空連の講習会や学連、実連、神奈川県連等でいろいろな人から他流のいい面を学び、未熟な私は空手道の奥の深さを痛感しました。
永い空手人生の中、私にとって生涯忘れられない事のひとつにこういうことがありました。ある日、70歳を過ぎた小幡功師範から「今日は個人指導をするから母校の日吉道場に10時までにくるように」という指示を受け、道場を清掃して待機していましたら、小幡先生は胃癌に犯された身体を学連から贈呈された杖にすがってこられ、道場正面に正座され「西谷くんの得意な型を止めというまで続けるように」と命ぜられました。私は偉大な師の面前で緊張し、肩に力が入りコチコチになりながら演武を続けました。師は100回、200回を過ぎても決して止めと言われず、型の中のひとつひとつの突き蹴り、受け技、立ち足等を鋭い目で追われ、少しでも気を抜くと鋭い声がとびました。
午前10時から始め、おそらく五百回を遥かに上回ったと思われる頃になっても止めの声はありません。どうにでもなれと思いながら型を続けた私の身体は体力の限界を越え、余分な所に力を入れる余裕もなく、自然に不必要な力みもとれてきました。自分自身を忘れて型に没頭し、型か自分かの区別がなくなり、師が私の前に正座されている事も呼吸している事すらも忘れた頃、大きな声で「止め」と言われました。はっと我に返り、夕闇迫る道場で師の前に正座した私に、師は静かに語りかけられました。「自分自身を捨てる事と無心無欲になる事を少しは理解したかなぁ。力みも取れたね」と。師は身体で覚える事がいかに大事かを1日中微動だにせず身をもって指導され「西谷くんもやっと空手道の入り口にさしかかったね。空手はやればやるほど難しい。これからも大いに悩み、研鑽を積み、何度もトンネルを抜けなければならない。今、流した汗の一粒一粒の汗が目に見えない心の部分を磨くのだ」と私を諭しました。私が35歳で全空連の6段に合格した直後の事でした。驕る心を戒め、これからが本当の空手修行の始まりであることを諭し、その後まもなく他界された小幡先生。それは私に対する遺言のようなものでした。
空手を続けて感謝する事は仕事関係以外の多くの人との出会いがあるという事です。第1回メセナ大賞を受賞した岡山の林原健氏を始め大勢の人々が私の心の支えになっています。政治も経済も不透明な今こそ、空手で汗した人達が世に出るべきだと思います。広島でのアジア大会の正式種目採用を機に、我々空手で汗する者は空手界の中だけで自己満足するのではなく、この空手道の素晴らしさが大勢の人々に理解され認知されるよう、ひとりひとりが努力するべき時期にきています。それには我々空手で汗する人々が襟を正し、社会に貢献すべきです。それがオリンピックの正式種目採用に通じるのだと信じるひとりです。
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